「わたしがトランスフォーブにならなかった/ならずにすんだ理由」
2016年くらいからTwitterのフェミニズム言説に触れているわたしは、2018年以降たくさんの「フェミニズム系アカウント」がトランス差別に傾いていく場面を見てきたのだけど、なぜかわたしはトランスフォーブ/トランスヘイターにならなかった。今回は考えられる理由について書いていこうと思う。
まず結論からいうと、「偶然」といえる要素が多い。
わたしがトランス差別に陥らなかったのは「善良だから」でも「知的だったから」でもない。いくつかの偶然が重なって、そうならなかっただけ。
もちろん、差別をする人は属性や履歴に関わらず確実に「愚か」だと思うけれど、差別側にいかなかったことを自分の優越性の確認に利用するみたいなのは、なんか嫌なんだよね。
それ以外の分野できわめて善良なはずの人がトランス差別に傾いていくケースや、アカデミアに属する知的な人物が醜悪なトランスヘイトの尖兵と化すケースを見てきたので、「〇〇ならそうならないはず」と思いこむことが却って適切な事実認識を遠ざけるような気がする。
振り返ればわたしにもヘイト側に行ってしまうリスク要因がいくつかあった。トランスヘイトに陥ってしまったアカウント同様、ミサンドリーに親和的なアカウントを複数フォローしていたし、性暴力被害経験もあったからね。
しかしわたしには「踏みとどまる」要素もいくつかあった。
だからわたしのケースの場合、前者(リスク要因)より後者(踏みとどまる要因)が大きかったため結果として「ならなかった」とみている。
具体的には、
①排除言説に触れるより前に、トランス当事者と実際に会った経験があったこと
②差別構造を理解する機会があったこと
③インターセクショナリティ(交差性)を重視する要素を持っていたこと
が、「踏みとどまる」ために有効な要素として働いたと思う。以下に詳細を書いていきます。
①排除言説に触れるより前に、トランス当事者と実際に会った経験があった
→恐怖心を煽る言説を知る前にリアルな人間としてのトランス当事者を知っていたので、おかしさに気づくことができた。
現実的には、人口1%以下のトランスパーソンと知り合う機会自体もてない人が大多数だと思うけど、プライドイベントやレズビアンバーなど、クィアな人が集まる場にいく機会が比較的多かったから、トランスの知り合いが自然にいたんだよね。
②差別構造を理解する機会があった
→わたしの場合、自分がマイノリティに属する反差別運動(フェミニズム)と、マジョリティに属する反差別(民族差別ヘイトスピーチカウンター)に同時に関わり始めたため、差別には複数の軸があるということを実感として理解できていた。
トランス差別をするシス女性は、女性というマイノリティに属する自分自身が他の軸ではマジョリティに分類されるという事実を認めようとしないことが多い。それは言ってみれば、差別構造の理解を部分的に拒んでいる状態といえる。
一度そこに陥ると抜け出すのは難しいので、差別の構造について知る機会が得られたのはわたしにとって幸運だった。
わたしが差別問題について学びはじめた時から今に至るまでいちばんよく読み返しているのはこちらの2冊。
どちらも平易な言葉で構造的差別について学べる本です。
師岡康子さんの「ヘイトスピーチとは何か」▶︎https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b226247.html
金明秀さんの「レイシャルハラスメントFAQ」▶︎https://www.kaihou-s.com/smp/book/b576404.html
でした。
③インターセクショナリティ(交差性)を重視する要素を持っていた
→わたしは複数のマイノリティ要素をもっていたため、「女性」という属性だけを強調する一部ネットフェミニズム運動に違和感があった。
日本語圏Twitterにおけるフェミニズム運動は、異性愛者のシスジェンダーの日本人が中心となっているように(少なくともわたしには)感じられた。
非異性愛の女性やシスでない女性、民族マイノリティの女性は、あまり想定されていない印象があった。
時として「従軍慰安婦」や「沖縄」の話題が出ることもあったけれど、その場合も主に「被害女性への共感/連帯」という面ばかりが語られ、旧宗主国/本土の責任問題に言及するケースは極めて稀だった。
わたしは「#MeToo」「#ツイッターでウィメンズマーチ」などのハッシュタグ運動に参加する中で、ある種の疎外感を感じていた。
男性から性被害を受けたツイートには大きな反応があるのに、バイとしてシスヘテロと思われる女性から受けたセクハラにはほとんど反応がない、などもその一つ。
複数の差別構造の中でマイノリティに属す人間だったから「女性性」以外のマイノリティへの視座がないアカウントへの違和感を持つことができた、と表現することもできるかもしれない。
とりあえずざっくりとした考察はこんな感じ。
わたしはトランスフォーブにならなかったし、今後も行かないだろうと思う。
実際には何らかのクィア性を持っていながらトランスヘイトする人もいる(トランス当事者でトランスヘイトする人もいるくらいだし)し、民族マイノリティという属性でもトランス差別する人はいるわけで、決定打と呼べるような要素は今のところないけれど、とりあえず「構造を学べた」のは良かったと思う。マジョリティとしての自覚って、実感をもって理解するの、かなり難しいからね。
あとは、周りの人をみていると「他者のことはわからない」といい意味で諦めている人や、「わからないものをわからないまま受け入れる」度量がある人は、転がり落ちにくい傾向がある気がする。一度こけそうになっても冷却時間をとって一人で考えられる人や、質問をできる安全な相手を見つけられる人も結果的につよい。(これまた環境や性格の要素が強いのだけど...)
あまりまとまらないけど、わたしについてはこんな感じ。
現在トランス差別を行なっている人の何人かはわたしがかつてフェミニズム言説を知りはじめたときにお世話になった人たちだけど、醜悪な差別言説を延々と繰り返す様を見つづけて、もはや軽蔑以外の感情がほとんど消え失せてしまった。
それでも、自分がそちら側でなかったのは「偶然にすぎない」いう意識はいまでもこびりついているし、できることならば引き返してくれ、といつまでも思っている。
差別を「ビシバシしばく」みたいな話しと違ってSNSだとあまり目立たない話なんだけど、他の人がどういう経緯をたどって今の場所にいるのかみたいな話も、できたら聞いてみたいな。
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あとから清水晶子さんの「『同じ女性』ではない希望」という文章で「類縁性」という言葉を知り、このあたりを掘り下げるのが大事なんだろうと感じている▶︎https://twitter.com/solakofi/status/1444491186153000960?s=46&t=syCIv_psKxSbzfXDYz41Nw
この記事の元となったTwitterスレッドはこれです▶︎https://twitter.com/solakofi/status/1444473068349366275?s=46&t=syCIv_psKxSbzfXDYz41Nw
以下関連リンク
一時期トランスヘイトに加担していたけれど考えを改めた方のインタビュー記事「トランスヘイトをやめた理由」▶︎https://trans101.jp/2021/12/28/1-10/
トランス差別から脱した王谷晶さんの文章
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